もう4年も経ってしまいました
このブログがあることを数日前にうっすら思い出してログインにてこずってやっと入れました。
実母は2018年3月16日にこの世を去りました。
緩和ケア病院になんとか受け入れてもらえてからひと月もたたないうちに眠ったままスーッと亡くなりました。
緩和ケアでの毎日は今思うと母は何を考えていたのかな、と思います。
自分の弱った姿は見せたくなくて、友達には病気になったことも一切言わないで連絡を絶ったし、孫にも会いたくないと病院までお見舞いに来てくれたのに追い帰してしまったり、私が行っても早く帰れ帰れ!と毎回最後はケンカ腰だった。
食事はほとんど食べられなくなっていたけど、ヤクルトと私が持っていった黒にんにくだけはおいしいと言って毎日食べていた。
健康診断で検便して目にも見えない血便で大腸検査をすることになっていきなり胃がん末期と診断されて。それまではたくさん習い事をしてお友達と食事に行ったり東京まで小学校の時の同級生と集まったり楽しく過ごしていたのに、生活が一変してしまった。
その前に認知っぽくなって物忘れ外来に無理やり連れて行ったら介護認定をすぐ取るように先生に言われて、介護認定がつくと今まで通っていた自治体のやっている習い事のサークルには通えなくなってしまうので嫌だと言ってたのに私が認定取らないとダメだと先生に言われたから、とこれもやめさせる形になってしまって。今思えば自分で通えていたのだから、楽しい居場所を取り上げてしまうことなかったと思う。すごい怒っていたもの…
ケアマネさんが来るのもヘルパーさんが来るのも来るまでは全身で嫌がって
でも実際に来て会ってるときは超ニコニコしておべっか使って応対。帰った瞬間に口汚く大文句言っててそれを聞くのも見るのもすっごく嫌だったなー。
腰の圧迫骨折で入院した病院を追い出されて実家に戻るしかなくてその間姉と交代で実家に行ってたときはつらかったなー。
母がどんなことを考えて生きてきたのかは何もわからなかった。
ただ父が亡くなった日の次の日に父の持ち物をほとんど処分して布団も捨てていたのには驚いた。写真は1枚も残されていなかった。
「お母さんね、お父さんのこと嫌いだったんだよ」と葬儀のあと数日経ってから言われたことはわかってはいたけど衝撃だったのでずっと忘れられない。
実家は処分して今は更地になって売りに出ている。
ご近所さんと付き合いもなかったのでもう行くこともない。
お骨は納骨されず姉が持っている。
コロナで法事もしていないしお墓参りしても父しか入ってないお墓・・
お母さん死んだはずなのに全然来ねえなぁーと思っているだろうな。
いいかげんどうにかしないとね。
あの世でまた怒ってるかもしれない。
短いようで長かった?自宅での日々
15日に一時退院してから21日に緩和ケアに行くまでの間に何もありませんように、と祈りながら姉と介護していました
ちょうど平昌オリンピックをやっていて、スポーツ中継が大好きな母はベッドからテレビを見て楽しんでいました
ご飯の時は起きてきてテーブルについて食べたいものを少しづつですが口にいれていました
身体は倦怠感がひどくて、つらい―と言ってるけどまだまだ元気で文句もいっぱい、嫌味も言うし、私はムカついて口もききたくなかったり。
母は訪問看護の方に優しくしてもらって嬉しそうにしていました。
足湯して足を洗ってもらったら、すっごいたくさんアカがでて、母も私たちもビックリ!
母には緩和ケアに入院することはまだ言えてなくて…
やっと家に帰ってこれたのに、また入院するの!!って激怒するだろうし・・
姉と相談して病院のやってる『施設』で、つらい症状を『緩和』してくれるところがあるからそこに行ってみようか?と話してみることにした。
母は、最初は「そんなとこ行かないよ」と言ってたけど、何回かくりかえし話したり「電話してみるね」とか「予約できるって」と段階を踏んでいくうちに行く気になってきた。実際は21日に面談でそのまま入院ということになってたけど。
そしてやっと21日になって、朝から忙しく準備して退院の時と同じ介護タクシーに来てもらって実家を出ました・・・
久々の自宅はさどちゃん支配のさどちゃんワールド
家に帰ってきて、昨日入れてもらった介護ベッドに寝て熱望していたあつ~~いお茶をいれてやっとひとごこち~
病院では何も食べなくなってしまったさどちゃんは、家に帰ってから少しづつ食欲が復活してきてご飯を食べられるようになりました
トイレもつかまって行けるし、気にいらないことはバシバシムスメたちに言う、普段のきっちりルーティンは変えない&過過過干渉のさどちゃんがよみがえってきたのです。
そしてベッドマット事件が起きたのでした。
カンファレンスのときに、動けないから床ずれ防止のエアーマットにしましょうという事になり、ベッドやさんが夕方エアーマットを持ってきてくれて空気を入れて今までのマットと交換していってくれたのです
しかしこのマットがさどちゃんには気に入らなくて、エアマットの上に薄い敷毛布を敷いて寝かせたのですが「なんで布団を敷いちゃダメなの!?」「これじゃ寝れないよ!!」とおかんむり
姉と二人で「これいいじゃん、すごいいいやつなんだよ」と持ち上げても何してもブツブツ文句を言い続け・・・
なんとかなだめて寝かせて、夜の12時ごろに姉が母を見に行ったら、なんと母はベッドの上に起き上っていて、「これじゃ寝れないよ!!シーツがぐしゃぐしゃになっちゃうし布団が敷けないしもうやだ!!取り換えて!!わあああああああん!!」と大騒ぎで半べそ状態。
私も起きていってしかたなくエアマットを外し、マットもないベッドに布団を敷いて母を寝かせました・・・・もう・・・なんなの・・・ぐったり・・・げっそり・・・
そんな退院1日目の夜でした・・・
J病院よさらば
退院の日、カンファレンスのときにソシャワは「S病院の緩和ケアからまだお返事がなくてぇ・・・」とやる気ゼロ発言をしたので「今電話してください」と言い放ち、電話させました
そしたら23日か早くて21日に面談してくれるとのことで、カンタキの方とよかったぁぁぁと喜びあいましたよ(ソシャワはもちろん無視)
さっさとカンファレンスを終わらせて退院しようとしたのに、内科の先生がお話したいとまたソシャワの嫌がらせ(-"-)仕方ないから外来でお忙しいセンセイのところにソシャワもついてきて『お話』
そしたらまた『確認ですが、ご家族は余命のことをどうお考えですか』ってそれこの間も聞いたよね!?なんで何度も何度も聞くんだよ、カルテに書いとけよ!!!
入院中1回も診察に来なかったのに、「外来の予約入れておきましたから」ってどゆこと!?まともに歩けなくなってるのになんでまた外来にこさせようとするんかい?この病院はおかしい、一刻も早く去らなければと思いスルー力を総動員してとっととバイバイしました。
介護タクシーさんが待っていてくれたので、母をリクライニング車椅子に乗せてもらって一路実家へ~~
さどちゃん、貧血が出てしまう&退院へ
月末までには何とか‥と思いながらも行き先決まらず・・そしたら貧血の数値が上がっているので輸血しますと連絡が。
えー胃がんの出血だよなぁ・・
輸血→血液検査→数値まだ✖→2回目輸血となってしまった。
がんの症状が出てきてしまって老健は入れないし、ますます困った~~と
なってたらインフルの院内感染がひどくなって、2月の始めあたりから1週間面会禁止に!!
母と同室の患者さんもインフルにかかったというので、隔離したんだとおもいきや、なんと他にもいっぱいいて動かせないからそのままだって言うんですよ、ありえなくないすか?
母に会えないから母の気持ちも聞けないし、様子もわからないしで足踏み状態。1週間目にさら3日間面会禁止期間が延びてしまって、退院もできず、母はトイレは車椅子で移動、リハビリもしてなくて、何も食べられなくなっていた。
こんなとこ1日も早く退院させないとだめだ!!となった
姉と施設を3軒回ったりしたが、どこもすぐは入れないし、姉は全部却下だったので、相談して、もう1回実家に退院してそれから行き先を探そうということになり、病院に15日か16日に退院しますと伝え、圧迫骨折する前に探していた訪問看護などを頼める『看護小規模多機能型居宅介護』(カンタキ)の施設にケアマネさんに連絡して、退院の前日に介護ベッドを入れてもらうとか大急ぎで手配した。
緩和ケアも考えていたけど、ソシャワには今の症状では入れないとさんざん言われたが、ダメ元でS病院の緩和ケア病棟に電話してみたところ、母の様子を聞いて受け入れてくださることになり、面談日を急いでくださることになった!J病院のクソソシャワに連絡してくださるとのことで、神かと思いましたよ(´;ω;`)ウゥゥ
いっきに退院と看護師、ソシャワ、カンタキのケアマネさん、施設の方、ベッドやさんも含めのカンファレンスの日程を決めて
2月15日にカンファレンス後退院することになりましたっ!
退院後の行き先、決まらず
もう月末が近くなり、ソーシャルワーカーにギャーギャー言われ、退院先を探す毎日。
姉は自分が実家に戻って母の介護をすると言うけど、ゼッタイ無理やんそれ。仕事も自宅もあるのにどーすんねん。自分が見るとか言って、結局困ったときは私が呼ばれんやろ?
私は施設に入れるのがいいと思うけど、と言ってたら「〇〇(私の事)は施設に入れればいいと思ってるんでしょ!」とキレる・・・
ソシャワは介護付き有料老人ホームを推してくるけど、そんな大金は払えないし、胃がんがあるからなー。病院付属の老健ではいれるとこないかしらと電話をかけたりしてたらソシャワがそれが気に入らなかったらしく、内科の先生に告げ口?してなぜかセンセーと面談しないといけなくなったり・・・
ソシャワ不信がつのる姉と私。
圧迫骨折入院記
このJ病院は先月大学病院から紹介してもらって2回だけ見てもらった内科の先生のところ
整形外科の先生はくまさんみたいな風貌だけどお話はせっかちだけど優しげな先生だった
入院した日に、もう1人暮らしは無理なので、退院後の行き先を決めてくださいと言われていて、ソーシャルワーカーと面談もした
このソーシャルワーカーがくそすぎて行き先探しは難航を極めていく・・・
私と姉は退院後の意見があわず、ソーシャルワーカーにも振り回されてイバラの道が始まることに・・
それと裏腹に、母の経過は良く、ご飯もおいしいと楽しみにして毎食食べていた。
2週間ぐらいでもう退院してもいいですよとくま先生から言われたけど、行き先全くメドたってなくて「いますぐってわけじゃないよ」とかごまかしながら入院継続・・
だってこの時点で焦る私とは真逆の姉が、行き先のことなーんにも話に乗ってこないし
まだいいでしょみたいにのらーりくらーりしていたんだもの・・・
母には、「行くとこ探して、月末ぐらいに退院しようね」って言っていたけど。